じぶん回帰体験談
平成18年07月03日
有田復興の願いを込め、世界中の人を魅了する有田焼の万華鏡を制作
 今回取材しましたのは、石川慶蔵さん(58)です。石川さんは、昭和22年、小城郡牛津町(現在の小城市牛津町)の生まれのUターン組です。現在は、奥様の実家の(有)佐賀ダンボール商会の副社長です。業務内容は、有田焼を入れる箱(化粧ケース)の製造販売ですが、石川さんが今熱中されているのは、何と世界で初めての有田焼で作った万華鏡です。その石川さんに商品開発物語をお聞きしました。 

【県外での生活(ファーストステージ)】  
 石川さんは、鹿児島大学卒業後、松下電器に入社。その後、PHP研究所に出向、そこで31年間勤務。PHP研究所と言えば、松下幸之助さんの理念や考え方に関するビデオや書物をたくさん発行している会社です。機関誌である『PHP』は、人間とは?真に豊かな人生とは?幸福とは?といった、いつの時代にも変わらぬ人類普遍のテーマである「生き方」について、身近な角度からとりあげています。石川さんは、PHP研究所勤務時代に、骨の髄まで松下幸之助さんの思想が染み付いたと言えます。

 【佐賀に戻ってくるきっかけ】 
 奥さんの実家が有田焼を入れる箱を作っていて、社長(義母)も高齢となり、家業を引き継ぐため、5年前(H13年)に帰ってきました。当時は、高校3年生の長女を頭に4人の子供がおり、教育の真っ最中でした。また有田の窯業界も長引く不況のため、家業も厳しく、畑違いの仕事でもあり大変不安があったそうです。  

 しかし、「不況こそ、発展のチャンス。道は無限にある」という松下さんの教えに励まされ、戻ることを決意したそうです。当時の江口克彦社長から退職の際に、「今、伝統産業はどこも厳しい。しかし苦難に出会った時、いつも松下さんと心の中で相談しながら取り組んだら、道が開けるのでは‥」とはなむけの言葉と『素直』と書かれた松下さんの額を頂いたそうです。 

【佐賀でのネクストステージ】  
 有田に帰ったら、みんなから「石川さん、10年前に帰ってきたら左団扇で楽できたのにね。」と言われたそうです。「こんな厳しくなってから帰ってきたら、大変だよ。でも良く帰って来たね。」と歓迎を受けた。半分同情されているような感じだったそうです。  

 そんな有田に帰って、人間国宝・第十四代酒井田柿右衛門先生の教えに出会い強い感動を覚えたそうです。 
(1)伝統産業は宝の山である。
(2)有田にはすばらしい技術と伝統という財産がある。 
(3)綺麗なものを作るな。美しいものを作れ  

 柿右衛門先生は若い人に有田焼の伝統の誇りと夢を持つことの大切さをいつも語っておられる。業界の人達は、長引く不況のため、子供には継がせたくないと考える人が年々増えているという。 有田焼の売上は10年前の最盛期の1/3となり、それでも歯止めがかからない状況である。

 加えて有田の町は、8割が何らかの形で焼物に依存している。有田焼が売れないと石川さんの会社をふくめ多くの商売が成り立たなくなる。清水焼や美濃焼など他の産地なら、たとえ業界が無くなっても京セラやトヨタのような異業種の大手企業がすぐ近くにあるが、有田にはそれがない。有田焼の再生は、町の人たちすべてが望んでいることである。 

 石川さんは、もし、松下さんだったらどうされるだろうと絶えず心の中で自問自答を続けたそうである。松下さんは、不況の時は、いつも多くの人の衆知を集めて、みんなが喜ぶ商品を次々と開発された。そして自らの体験から、『不況こそ発展のチャンス、道は無限にある。』といわれている。

 有田の厳しさは、自らの強みを忘れ、ヨーロッパや中国と同じ土俵(コスト競争)で戦っているからではないのか。むしろリストラされている手書職人やろくろ職人を主役にして、知恵で勝負する新しい土俵が創れないものか。なんとかして海外に、有田焼の和文化を評価してくれる新しいブランドの畑が作れないのものか。今こそ、350年前、古伊万里をヨーロッパに輸出した先人の人達の高い志と知恵に学ばなければならない時代ではないだろうか。でも、有田焼で何を作ったらいいか分からない。  

 石川さんは、3年前(H15)疲れから1ヶ月病院に入院した。その時、台湾製の万華鏡を1つ持っていったそうです。寝たきりのおばあさんに見せたら、「ワア綺麗!こんなきれいなものを見た事がない、毎日見せて」と言われ、そうやって見ている間にどんどん笑顔が出てきて、元気になられたそうです。石川さんもずいぶん癒され、こんな「感動と生きる力を与えてくれる万華鏡が有田焼でできたらいいな」と思ったのがキッカケだったそうです。

 退院後、有田焼万華鏡の新製品をつくるための県の補助金審査で、窯業の専門の方は、磁器と金属や硝子との接合は、無理だと言った。しかし石川さんは、「町をなんとか元気にしたい。そのため異業種のプロを10人集めた。なんとかチャレンジさせてほしい」と懇願し、幸い認可された。松下さんの衆知経営を地で行ったわけです。メンバーには、126年の歴史を持つ香蘭社、有田三衛門窯の一つであの源右衛門窯、佐賀市の無形文化財の副島硝子、わが国万華鏡作家の第一人者・山見浩司さんなど異業種のプロの方々です。

 石川さんは、メンバーに対して次のような有田焼焼万華鏡の方針と願いを繰り返しお願いしたそうです。 
(1)わたし達は、万華鏡を通して「多くの人に夢と感動と生きる力を与えたい」と願っています。
(2)わたし達は、「万華鏡はわが娘、お客様は、娘の嫁ぎ先」との思いで生涯のお付合いをしたいと願っています。 
(3)わたし達は、500年後の人たちにも「夢と感動と生きる力を与えられる」ようより良い商品づくりに努力いたします。
(4)わたし達は、有田の歴史と有田焼の伝統に誇りをもち、多くの人に喜ばれる今までなかった商品を次々と開発し、「有田の町を元気にすること」を誓います。 
(5)わたし達は、衆知をあつめ、有田焼万華鏡が「佐賀ブランド、日本ブランド」となるよう海外にも広め日本文化の評価が高まるよう努力いたします。
 このような志を持った異業種の仲間の手で、有田万華鏡は産声をあげたわけです。

 有田焼万華鏡の売れ行きについて、石川さんにお尋ねしました。大変好評だそうです。国内では、大手百貨店、通販会社や機内誌などで取りあげられ、万華鏡フェアーや万華鏡教室などイベントも開催しています。海外でも、毎年アメリカで行われる世界万華鏡大会では、手書き職人の高級種から売れ、有田焼の伝統工芸は、海外でも高く評価されるという確信がもてました。そこで伝統の技を更に生かした大型高級万華鏡を7タイプ開発いたしました。ホイールタイプ“手鞠”(高さ1.4m、重さ40kg)は、佐賀県立宇宙科学館に設置され年間25万人の子供たちに見ていただいております。

 石川さんは万華鏡ができた理由を次のように述べています。 第一に、自分が焼物について素人だったこと。だから、従来の有田焼の概念にとらわれなかった。第二に、お金がなかったこと。だから、知恵が生まれ、県やマスコミも共鳴してくれた。第三に、有田が不況だったこと。だから有名窯元が、商品開発に全力で協力してくれた。

 まさしくUターン、Iターン人材ならではの発想だったのではないでしょうか。石川さんは、「ふるさとに帰ってきてよかった。有田は素晴らしい町だ」と言います。それは、「自然が素晴らしい。歴史がある。通勤も5分しかかからない。伊万里が近いので肉も魚も野菜も美味い。こんな町で、経験を活かしてベンチャー企業を起こすのもいいし、趣味で米や野菜や果物を作ってもいい。絵を書いたり、焼物をつくったりするのも素晴らしいのでは‥」とおっしゃいました。 

 佐賀に、松下幸之助さんの願いを実践しようとする人が住んでいるなんて、素晴らしいですね!

(そんな有田焼万華鏡のホームページは、こちら↓)
http://www.arita-mangekyo.jp/index.html
開発した万華鏡を手にする石川慶蔵さん
アメリカでの万華鏡の世界大会に出展したときの模様
美しい万華鏡の世界

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